　実はこの喬木さん、ただの薬売りではなく「好山病」の発見者であり命名者なのだそうだ。十数年前まで、山を知らない下界の医師は皆、患者の症状を診てウィルス感染を疑ったが、原因となるウィルスを発見できず、その治療法に悩んでいた。池の平小屋に通う喬木さんは、下界で体調不良の人が山で自然治癒する事例を多数観察して「ウィルスの抗体が山にあるとは思えない。ウィルスが原因ではなく自律神経系の病ではないか」と仮説を立て、それを立証する科学的根拠を仙人谷で探し求めた。そしてついに、景観・マイナスイオン・温泉など仙人谷の自然環境全体が、人間の五感を通して体のバイオリズムの正常化に作用していることを突きとめたそうだ。以来、健康増進の観点から中高年を中心に山ブームが再来、また若い世代でも登山を楽しむ人が増えてきたというわけである。喬木さんは現在も好山病の知識と治療法の一般普及につとめ、好山病と書かれた小さなシールの配布活動をしているという。
　富山といえば、タカジアスターゼ酵素の発見者で三共製薬を創業し宇奈月温泉の開発にも力を注いだ高峰譲吉博士が有名だが、それと肩を並べる功績だろう。
好山病の発見がなければ、私は今頃病院でモルモットのように薬漬けにされていたかも知れない。
喬木さんはそんな凄い人なのに何ら偉ぶることなく「じゃ高橋さん、また帰りに寄るから！」と言って出発して行った。その後ろ姿に勤勉実直な富山県人気質を見た。

　午後1時過ぎ、喬木さんと入れ替わるように1人の女性がやってきた。入院予約をしていたY子さんである。女性が来るとそれだけで診療所は華やぐ。「どうも、どうも、遠いところをようこそおいで下さいました。」高橋先生も美女を迎えて目尻が下がりっぱなし。診療所なのに山小屋のような歓迎振りだ。Ｙ子さんは阿曾原に前泊していたとのこと。阿曾原小屋の主人はクマみたいな風貌だったけど親切で優しいオジサンだったとか、常駐している県警の方たちが皆イケメンだったとか、うれしそうに話した。
　甘え上手なネコ型女子だから小屋でもかわいがってもらったのだろう。とてもこれから入院する患者には見えない。しかし彼女いわく、「山ではネコでも下界に戻るとすぐ狂暴なトラになってしまうんです・・・」ここまでくると、もはや慢性好山病だろう。彼女の悩みは深刻で「“山野ねこよ”に改名してずっと山暮らしをしてもいいと思っています。今回はその覚悟で来ました・・・」と漏らしていた。
「う～ん、それは李徴症候群ですね・・・」高橋先生は呟いた。
「なんですか、それ？」彼女も私も初めて聞く病名だった。好山病ではないのか。
「『山月記』^(注２)をご存じかな？中国に李徴という自尊心の強い男がいてね、己の社会的地位に納得できずそれを素直に受け入れられなくなり、ついには発狂して虎になって人里離れた山に隠れ棲むという話ですよ。社会に適応できず虎になる症状を李徴症候群といいます。羞恥心の強い李徴は引き籠り型だけど、あなたは攻撃型ですね。気ままに過ごすのが性に合っているネコ型人間なのにOL生活なんかするから、何かとしがらみの多い会社組織に耐えきれず虎になってしまうのでしょう。」
「酔っ払ってトラになるのも同じですか？」私はくだらない質問をしてみた。
「そりゃぁただのアル中だよ。治す薬はないね。」と高橋先生。3人で大笑いした。
「たいていの会社は、組織に忠誠を誓う犬型社会でしょう。どうでしたか？」
「はい、思い当たるフシがあります。周囲とはまったく波長が合いませんでした。」
「犬は組織のリーダーのもと集団で力を発揮します。ネコの集団はただの発情期の群れです。犬ゾリはあっても猫ソリはありませんよね。犬型社会でのOL生活は合わないでしょう。」
「はい、確かに。」彼女は大きくうなずいた。

「あなたはきっと山が生まれ故郷です。都会で暮らしてはいけないのかもしれませんね。」高橋先生の的確な診断で彼女の気持ちも吹っ切れたようだ。下山する気がなくなったようにさえ見える。彼女は、“ここが我が家”といわんばかりの足取りで女湯に向かった。

　この日の入院患者は我々2名だけ。夕食後は音楽療法で心身を癒した。高橋先生は得意のギターで「アルハンブラ宮殿の想い出」「禁じられた遊び」などを奏でてくれた。　翌朝はすっかり寝坊してしまった。目が覚めたら7時をとうに過ぎていた。
「先生おはようございます。いや～、ぐっすり眠れましたよ～」
「お目覚めですか。朝食の用意ができていますからどうぞ。」
「おっ、富山名産ヒラメの昆布〆とかまぼこじゃないですか！」「きのう喬木さんが置いていってくれたんですよ。どうぞ召し上がって下さい。」
「これは朝から一杯いきたくなりますね～。いただきます。」
「私もすでにやっていますよ！」もうここは診療所だか山小屋だかわからなくなってきた。医者も患者も関係なしだ。「あれっ、Y子さんは？」姿が見えないので聞いてみた。
「彼女はとっくに出かけて行ったよ、池の平小屋へ。朝食にこれを出したら魚の匂いを追っかけて行っちゃったんだよ。」彼女もついに、山野ねこよさんになってしまったか・・・よほど思いつめていたんだなあ。

　入院して一週間が過ぎた。その間、一泊入院の患者が何人もやってきたが、長期療養しているのは私だけだ。うれしいことに東京の登山仲間であるツジさんとノムさんが「緑川」を持って見舞いに来てくれた。二人から「退院して一緒に下山しましょう」と励まされたが、全くその気にはなれなかった。
　翌朝二人を峠まで見送って別れを告げた。 Y子さんも池の平小屋がよほど気に入ったのか、下りてくる気配はない。「いっその事、自分も・・・虎ではなく狼になって山に棲むか・・・」そこには、人間として生きることを捨てようとしている自分の姿があった。高橋先生も私の心境の変化に気づいているようだった。　山生活を一週間も続けていると動物のように五感が鋭敏になってくる。とくに聴覚は自分でも驚くほどで、まるでサイボーグ009に出てくる003フランソワのようだ。

　夕方、室内でくつろいでいるときだった。私の耳がはるか彼方の足音を捉えた。
「先生、何かがこちらに向かって来ます。まだ雲切新道を登っているところです。かなり大きいですね、でもクマではありません。美味しそうなウサギのような・・・」
「まるで獲物を追う狼みたいにいい耳しているね。」高橋先生は半信半疑で褒めてくれた。でも私の勘は正しかった。小一時間もすると本当にウサギちゃんがやってきた。「こんにちは～高橋先生、わたし来ちゃいました！」なんと玄関先に立っていたのは、あのべにこ先生だった。

　　　　　　つづく

【お知らせ】完結編は、小屋の図書コーナーでのみ公開しています。ご来湯をお待ち申し上げます。

（注１）北帰行（ほっきこう）　原曲は旅順高等学校寮歌。作詞：宇田博戦前、学生だった宇田が素行不良で放校処分を受け、実家のある奉天に帰る途中に作詞した。彼の反逆心・敗北と流離の思いを歌った名曲。
（注２）山月記　中島敦の小説　主人公の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」がテーマ

続・夢の仙人谷診療所

渓信州 2012年7月30日掲載 E-13

渓信州　2012年7月30日掲載　E-13