渓信州 2012年11月27日掲載 E-18
<作品1>「松の木と後立山」
セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」と対比をなす作品であることは言うまでもない。
樹木を構図に撮り入れて見事に遠近感を表現している。
<作品2、3>「後立山の夏」「初冠雪の後立山」
セザンヌは、無機質な岩山であるサント=ヴィクトワール山を表情豊かに描くために、作品によって色調・色の濃淡や筆のタッチを変えた。それはまた彼の心境の変化を反映している。同じ山なのにまるで別の風景画だ。(パンフレットの写真参照)
それに比べて、緑豊かで四季のある日本の山岳では、大自然が自ら姿を変えてくれる。エセザンヌはその一瞬を捉えることで、自然の表情の変化を人間に伝えているのである。山を通して自らの心を描いたセザンヌと山の心をそのままに伝えるエセザンヌ、絵画と写真の特性の違いをここに比較することができる。
【第2章 ~濁流の人生、そして仙人谷へ~】
多くの芸術家が酒に溺れて堕落の半生を過ごしている。エセザンヌもまた酒を愛する写真家である。しかし堕落はしていない。仙人谷に移り住み幾多の困難に直面するも、それを乗り越えようとする明るく不屈な精神が宿っているのだ。
このころからエセザンヌの追い求める被写体は、自然の風景から次第に人間へと移っていく。
<作品4>「首吊りの小屋」
一瞬ぎょっとする題名である。だがセザンヌを知る読者は、これが「首吊りの家」の模倣であることにすぐ気づいたであろう。セザンヌの絵に描かれている家で首吊りがあったのかどうかは知らない。
エセザンヌは“小屋の経営が苦しくて首が回らない”という気持ちを作品のタイトルで訴えている。まさか山小屋で首吊り?いやいや心配することはない。写真の右下をよくご覧いただきたい。脱衣場で手を振っている人物が見えるであろう。エセザンヌ自身である。
「この写真はパロディだよ。オレは深刻に考えてはいないよ」と叫んでいるのだ。なんとも明るい写真ではないか。作品の中に見せる彼の遊び心である。
<作品5>「両手を腰にあてて立つ男」
男は裸になるとなぜ腰に手をあてるのだろう。セザンヌの絵に描かれた男も同じポーズで立っている。
<作品6>「囲碁をする人」
セザンヌは「カード遊びをする人たち」と題して横からの構図で二人の人物を描いている。エセザンヌの作品は、一人の男を斜め正面から捉え対戦相手は指し手だけという構図になっている。カード遊びに上下関係はないが、囲碁は白が上位である。横からの構図では囲碁の本質を写すことはできないのだ。白はビール片手に余裕の表情さえ浮かべている。
【第3章 ~温泉浴~】
セザンヌは若い頃からヌードによる群像表現に取り組んでおり、水浴図は彼が生涯にわたって取り組んでいた主題である。セザンヌの祖国フランスには温泉文化がない。エセザンヌは仙人谷で温泉浴をする人を題材に「心と体の解放」を写真で表現している。
<作品7>「湯治の男たち」
彼が次の作品として構想を練っているのは「女性大水浴図」だ。セザンヌの作品のような大作を夢見ている。モデル7名ほど募集中。
【最終章 ~身楽者偽山奴~】
仙人谷での生活も10年が過ぎると、もはや人間を超越して仙人の域に入る。エセザンヌは現在、自身のアトリエにある身近な静物を題材に、物質の内面に隠れている真実を表現することに心血を注いでいる。
<作品8>「テーブルの上の果物」
無造作に置かれた果物や急須。しかしよく見ると、急須とコーヒー椀はやや俯瞰気味の角度から捉えられ、日本酒『緑川』の瓶は外側に傾いている。一枚の写真なのにまるで個々の写真を切り貼りしたような不安定な配置、これぞセザンヌを真似たエセザンヌらしさ溢れる静物写真である。
手前ふたつのリンゴの歯形はクマの噛み痕。しかしバーコードシールでおわかりのとおりこのリンゴは偽物で、欲をかいたクマは騙されたわけだ。それをあざ笑うかのように左奥には本物のリンゴが配置されている。右手前のショコラモンブランも本物のケーキ。食べ損ねたクマは、皮肉にも後ろの壁に毛皮となって貼り付けられている。ここに写し出された静物が暗示する真実とは“欲のなれの果て”である。
いかがでしたか。今回の個展ではスペースの問題もあり一部の作品しか公開されませんでしたが、仙人温泉小屋には持ち出し不可の作品が多数展示されています。来年は是非、山の写真美術館「仙人温泉小屋」にお出かけ下さい。
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