　私の所属する山岳会に、里山歩という陽気な中年男がいる。どんなに重い共同装備でも喜んで担いでくれるものだから、会の女性陣には大人気だ。本人はこれを女にモテると勘違いしているようだが、彼がもてるのは荷物だけである。いい奴なんだが一つだけ問題があって、彼がリーダーで山へ行くといつも遭難騒ぎになってしまうのだ。というのも、彼がとんでもない方向オンチだからである。

　いつぞやは、太郎平から黒部五郎、槍ヶ岳を越えて上高地へ下山するという縦走計画で、途中三俣蓮華から鷲羽、雲の平を廻って太郎平に戻るという壮大なリングワンデリングをした逸話が残っている。 GPSを持っていたにもかかわらず。後を歩くメンバーも間違いに気づかなかったというから情けない話だ。リーダー任せの団体登山が陥りやすい行動パターンであり、我が会だけの笑い話では済まされないかもしれない。

　さすがにこのときばかりは彼も反省した。GPSでこまめに位置確認をしなかったのがいけなかった、と半分は機械に責任転嫁したのである。（そういう問題ではなく、方向感覚や地形判断、読図力といった登山のセンスの問題です）
　そこで彼は考えた。車にカーナビがあるように、山を歩く時もGPSが音声案内してくれるシステムが作れないかと。そんなものができたら登山の楽しみがなくなるだろうと私は思うのだが、技術屋の彼は真剣である。それもそのはず、実は彼、携帯電波の届かない山岳地域をカバーする通信網会社MTTdocodemoのエンジニアで、その道では有名な学者先生なのだ。

　そのえらい里山博士殿が2年の歳月をかけて開発した山ナビの試作品ができたらしく、テスト山行につき合ってくれないかと頼まれた。あんまり気乗りはしないが、何かアドバイスできることもあろうとOKの返事をした。

　さっそく試作品を見せてもらった。対外厳秘のため写真紹介できないが、サンバイザーつきの野球帽型と言えばおわかりいただけるだろうか。サンバイザー上部が太陽電池板になっていて、下側に折り畳んであるサングラス部分を下げるとそれが透過スクリーンとなり、実際に歩いている道にナビの矢印が重なる仕組みである。カーナビと違うところは、事前に行程をパソコン入力して必要な地域の情報だけ山ナビにインストールしてから出かけるところだ。これがコンパクト設計のミソらしい。
　帽子の部分は汗で汚れても洗えるよう取り外し式、またバッテリーの消耗を防ぐためにスクリーンを下げたときだけGPSがオンになる仕組みだという。

　8月中旬、立山室堂ターミナルから仙人温泉小屋に行くルートでテストすることにした。まずは自宅のパソコン画面で行先を入力、最短経路検索キーを押してみた。大変だ！別山尾根、剱岳から北方稜線経由で行くルートを表示しやがった。やり直し。途中経路に真砂沢ロッジを入力して再検索すると正しいルートが表示された。最短経路検索機能など必要ない。これは削除！
　あとは問題なさそうなのでこれで設定完了、山ナビに情報をインストールした。図らずも、山ナビには高低差、ルート難易度などの情報を加えて精度を高めていかないと素人さんには使えないことが明らかになった。（私見だが、2万5千分の１の地図を見て３Dに見えなければ山を歩く資格はないと思っている。）

　8月16日、室堂を出発し剱御前小屋を経て剱沢を下った。剱沢の残雪は例年より多いが、大雨でところどころズタズタに崩れて下部はルート判断が難しそうだ。里山は平気で雪渓のど真ん中を下っていく。
「おいおい、そんなところを歩いたら危ないじゃないか」
「だって、ナビの矢印がここを歩けって示しているんだよ」やれやれ、この山ナビ、どうやら地獄行きを案内するらしい。彼に雪渓の歩き方を教えるとともに、雪渓上ではナビ案内を停止させることをアドバイスした。その年や季節でルートが変わる場所はやはり人間が判断しないと無理なのである。
「雪の上にベンガラを撒いてくれればわかりやすいのに・・・」と彼。
「雪の状態は日々変わるから、昨日のルートが今日歩けるとは限らない。そういう場所にベンガラを撒くのは返って危険なこともある。結局自分で判断して歩くんだよ。」山ナビはあくまでも補助機能であって過信してはいけないことが彼にも理解できたようである。それ以外の登山道案内は的確で、ナビ機能も正常に作動した。2日目午後、無事仙人温泉小屋に到着した。『目的地に到着いたしました。音声案内を終了します。お疲れさまでした。飲み過ぎにご注意下さい。』どこを注意しているんだ！注意案内するのは道だろ！まったく憎たらしいナビだ。

　11月、今度は独りで白馬乗鞍岳に2回目のテストに行ってきたそうである。危険個所のルート判断を人間に促す機能をつけて安全性を高めたとのこと。
天狗原は既に50センチの積雪があり下山時には吹雪となって、登りでつけたトレースは吹き消されてしまったが、ホワイトアウトした雪原をまっすぐ歩くことができたという。
途中で5人パーティと出会い、「この天気で登るのか？」と聞くと「いえ下山するところです」との返事。どうやら雪の天狗原でリングワンデリングしてしまったらしい。「ときどき方角を確認しないと危ないですよ。私について来なさい」そう注意して、5人を連れて安全に下山したそうだ。
私は思わず噴き出しそうになった。まあ、自分で開発した道具だからこれも彼の登山能力のうちとして評価しよう。
チャンわらサン（柴犬）

　これでいよいよ山ナビ実用化のメドがたったわけだが、里山はなぜか開発をやめてしまった。理由を聞くとこうである。　12月、好意を寄せていた女性を誘って二人で大清水から鬼怒沼を越えて日光澤温泉に行ったときのこと。雪の鬼怒沼で突風にあおられ山ナビ帽が飛ばされてしまった。方向感覚を失い彷徨っていたら、向こうから3匹の犬がやってきて日光澤温泉まで導いてくれたというのだ。
同温泉宿の柴犬親子※がご主人と雪山散歩に来たところだったらしい。危ういところで難を逃れた彼は宿で反省した。山ナビ帽にあごひもをつけなかったのが失敗だったと。カッコイイ山男を気取るつもりが、犬に救われた情けない男を演じる羽目になり、面目丸つぶれとなった。
このあと彼女に振られたのは言うまでもない。便利な道具に頼りすぎ、もともと鈍かった感性がさらに錆びついたことに気づいた彼は、帰京後“山ナビは感性を退化させる悪道具”と考えるようになった。こうして山ナビの開発はお蔵入りにしたそうだ。

　それでいいのだよ、里山君。山は五感を研ぎ澄まして歩こうよ。そうすれば今まで見えなかったものが見えてくるよ。それが登山の楽しみというものさ。おっと、他人事ではありませぬぞ。スマホで天気予報を見ているあなた、観天望気できますか？

※柴犬親子　チャング（母）わらび（子♀）サンボ（子♂）　　3匹まとめて、チャンわらサン　犬好きにはたまらないかわいらしさ！　実際に道迷い遭難した登山者を発見救助したことがある。

どこで架空の話だと気づきましたか？
① 「里山歩」で気づいた方．．．．．．なかなか勘の鋭い方です。山で道迷いしないでしょう。
② 「MTTdocodemo」または「対外厳秘のため～」で気づいた方．．．．．．ユーモアが理解できる方です。
③ 最後まで実話だと思った方．．．．．．まじめに働きすぎです。一度仙人温泉小屋にお越し下さい。

山ナビ開発物語

渓信州 2013年8月28日掲載 E-31

渓信州　2013年8月28日掲載　E-31