渓信州 2014年10月27日掲載 E-53
私は犬に頭が上がらない。
女房に頭の上がらない亭主というのはよく聞く話だが、犬に頭が上がらない男とはどういうことなのか。そうなったいきさつをお話しよう。 40年以上遡る。私が小学5年生だったある日、我が家に一匹の甲斐犬の赤ちゃんがやってきた。犬を飼いたいという私たち兄妹の願いを聞き入れて、父が知人から譲ってもらったのだ。
甲斐犬の特徴である黒茶まだらの毛並と胸から腹にかけての白い帯、そして左前足の先だけ白くなっているところがちょっとマヌケでかわいいオス犬だった。私たちはこいつに「ムク」という名前をつけて家族の一員に迎え入れた。
まだ赤ちゃんだし、ぬいぐるみのようにかわいいから最初は家の中で育てた。人間の赤ちゃん同様、いろんなことをやらかしてくれた。母のハイヒールの革を食いちぎったり、アイロンのコードを噛んだり。しつけができていないから、ところかまわずオシッコをする。わたしたち子供にはかわいいペットだったが、母には憎たらしい奴だったろう。
やがて大きくなり、庭で飼うことになった。父と私で犬小屋をつくってやった。初めて外に出した夜は寂しさでピーピー泣いていた。鳴き声を聞くとかわいそうで私も一緒に小屋で寝たかったが、二日目の晩は泣きやんだのでホッとした。
休日は家族でよく近所の里山にでかけた。車ででかける気配を察するとムクも大はしゃぎで、ドアを開けるとすぐ飛び乗ってくる。助手席の足元がムクの指定席。春は山菜採り、秋はキノコ狩りと自然の遊び場には事欠かなかった。
甲斐犬はオオカミの習性に近いようだ。救急車のサイレンが聞こえると、仲間の遠吠えと思うのか、よく音のする方向に「ウォーン、ウォーン」と叫んでいた。じっと遠くを見つめる姿は野武士の如く、愁いを忍ばせる日本犬である。
ムクが3歳になった頃、我が家は父の転勤で信州飯田に引っ越すことになった。引越当日はムクが吠えてうるさかったので、鎖をはずして遊ばせておいた。家財道具と犬小屋を積み終えたトラックは一足先に出発したが、我々家族は翌朝の出発なので、その晩はガランとした部屋に貸布団で寝た。しかし、ムクの奴、夜中になっても帰ってこなかった。 「肝心なときにまったく・・・」と母はあきれ顔だった。
翌朝出発のときになっても姿が見えなかった。事故にでもあったのだろうか。心配だったが、いつ帰ってくるかわからない犬を待って出発を遅らせるわけにはいかない。我々はお隣さんに事情を告げて出発した。
飯田に向かう途中、車中での話題はやはりムクのことになった。まるで死んだ飼い犬を懐かしがるような思い出話をする大人、遊び相手がいなくなって心配する我ら兄妹。人間の子供と違って一匹でも野宿はできるし、嗅覚があるから家には帰れるはずだ。そんな楽観的な気持ちでムクの安否を気遣っていた。
人間は無事引越先の家に着き、家財道具の搬入も終え、庭には主のいない犬小屋を置いた。帰って来ることを祈って。
甲斐犬 ムク
二日後のことだった。お隣さんから、ムクが帰ってきたとの電話があった。怪我もなく元気とのこと。よほどお腹を空かしていたらしく餌を大食いしたそうだ。家族はそれを聞いて安心するとともに、呆れて笑うしかなかった。全身の力が抜けた。まったく~、最後の最後までよそ様に迷惑かけて・・・
ちょうど春休みだったので、父と私が翌日車で迎えに行くことになった。まだ中央高速のない時代、雪化粧した南アルプスや八ヶ岳を眺めながら国道20号線を山梨に戻った。ラジオでは選抜高校野球の決勝戦をやっていた。部員わずか11人で初出場の徳島代表池田高校が準優勝して話題になった年だ。入場行進曲はたしかアグネス・チャンの「草原の輝き」だったかな・・・
数日前に引き払ったばかりの家に着くと、庭にはムクが鎖でつながれ、寂しそうにしていた。 「ムク!」 小声で呼びかけると、よほど寂しかったのだろう、耳を折り畳み尻尾を振りながら低姿勢ですり寄ってきた。 「無事だったかぁ。どこ行ってたんだよ~、バカだなぁ」 思いっきり抱きしめて、好きなだけ甘えさせてやった。お隣さんが言うには、トラックに犬小屋を乗せたからそれを追いかけて行ったのではないかとのこと。なるほど、私たちがトラックに乗っていると思ったのだろう。捨てられたと思って必死に追いかけたのかもしれない。ごめんよ、お前を見捨てるわけがないじゃないか・・・ ゆっくりしてもいられないので、お隣さんにお礼を言って飯田に向けて再出発した。 「ムク、これでやっと皆一緒だよ」
伊那谷の生活は人間にとっても犬にとっても最高に楽しかった。美しい自然と豊かな山の幸のおかげで、都会では絶対味わえない贅沢な暮しをさせてもらった。
5年が過ぎ、父がまた転勤になった。今度は静岡だ。引越は忘れもしない昭和53年4月3日、後楽園球場キャンディーズ解散コンサートの日。春なのに真冬に逆戻りの寒い日だった。長野県内の峠道は前日の大雪のため、あちこちで大型車が立往生して大渋滞。ムクも車内で退屈そうだった。県境を越えてやっと見つけた公衆電話から、到着が4時間遅れるとの連絡を入れた。
夕方5時頃静岡に着いた。空は快晴、風は暖かい。夕方なのに太陽が見える。出されたお茶が茶色ではなく碧い色をしている。私はこのとき率直に静岡県民が許せなかった。 「こいつら、温く温くと暮らしながら普段からこんなにおいしいお茶を飲んでいるのか。大雪で4時間遅れるという電話は寝坊した言い訳だと思っているんじゃないか?」 ものすごい偏見だが、このとき長野県民は偉いと思った。そして今もそう思っているのです。寒い土地に暮らす人は辛抱強く勤勉な努力家だと。
静岡で初めての夏を迎えた。長野から来た人間には暑くて辛い。犬も厚い毛皮を着て辛そうだった。ムクは次第に食欲がなくなった。じっとしている日が多く、夏バテだと思っていた。余りにも症状がひどいので獣医さんに診てもらうことにした。
診察の結果は、フィラリアだった。 「ここまで進行していたら、もう手遅れです。予防接種はしなかったんですか?」 血液中にはフィラリア寄生虫が繁殖し、手の施しようがない状態だった。フィラリアは蚊が媒介となる病気だ。静岡は暑いし雨が多いから蚊が発生しやすい。これは飼い主である人間の無知がもたらした災いだった。
ムクは自力で歩けないほど体力が落ちた。おそらく今日が峠だろうという日、私はムクを日陰で風通しのよい玄関に寝かせた。数時間後、ムクの姿が見えなかったので外に出ると、日なたで安らかに息を引き取っていた。代謝能力が落ちて夏でも体温を維持できないほど寒気を感じていたのかもしれない。最後の力を振り絞って日なたに出て陽にあたったのだろう。かわいそうな死に方をさせてしまった。
私は鈍感なのか非情なのか、淡々とムクの死を受け入れたのか、涙は出なかった。
翌日、近所の河原の草原に埋葬した。線香も上げず、ただ土葬しただけだった。花を添えるとか、なにかしてあげなくてはと子供ながらに思ったのだが、父に対してその意思表示をするわけでもなく、頭をたれただけでその場を立ち去った。
ムクの身になって考える。 “オレの一生は鎖でつながれ、発情してもメスはなし。人間の無知で病気になり医者にも診てもらえず死に際になって“もう手遅れです” 死んだら河原に捨てられて線香も供花もなしとは、あまりにも酷いじゃないか。これが飼い主に忠実な犬に対する仕打ちかよ!” この思いが歳月を経ても消えることなく心に引っ掛かかるようになった。今でも、日本犬の顔を見るとムクのことを思い出す。
こうして私は、過去に犬を裏切ってしまった人間として、犬には何も言えなくなってしまったのです。なにをされても「そうか、そうか・・」と許せてしまうのです。
奥鬼怒の日光澤温泉には3匹の柴犬親子がいる。犬好きの人間はすぐにわかるみたいで最初から仲良しになれた。犬に顔を舐められても逃げないから、塩味のきいた美味しい奴とでも思っているのか、それとも本当に人をなめているのか・・・ まあそんなことどうでもいいや。犬は正直で人を裏切らない。こんな私でも受け入れてくれる。
だから、やっぱり犬が好き! 母犬チャング(左)とやんちゃ娘のわらび。
【あとがき】
仙人温泉小屋には「フランダースの犬」の絵皿が5枚あります。犬好きの高橋仙人がわざわざ集めた非売品で、大切に使用しています。パトラッシュがネロの顔を舐めている絵皿は高橋仙人お気に入りの一枚です。
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