　汗ばみながら登っていくと、羅臼平に到着した。ここは広々とした平坦地で、右手に羅臼岳の山頂、左手に三ツ峰がある。三ツ峰は青空だが、羅臼岳にガスがかかり始めた。展望があるうちにと思い山頂へ向かう。途中で、最初に追い越して行った夫婦とすれ違った。

　はたして、シカはいたのか？
　「もう下山ですか？」「山頂は風が強くて、寒くて、長居できませんでした」「登ってくるときシカに会いましたか？」「ええ、最初に２～３頭いました。それからはシカはいませんでしたが、シマリスに会いました」「お気をつけて」
シカの数が減っている。やはり、半分くらいは逃げたのだろう。鈴か、夫婦の話声が原因と思われる。ポイントは逃げないシカもいたことだ。人間の気配を感じたからといって、シカが避けるかどうかは、シカ次第ということになるようだ。クマもしかりかもしれない。

　羅臼岳の山頂へのアプローチは急登で、岩が多い。山頂に着いたときは、ガスで何も見えなかった。とても寒いが、防寒着を着て、岩陰で食事をする。パンを食べて、リンゴを切り、コーヒーを携帯コンロで淹れる。そのうちにガスが切れ始めた。

羅臼岳山頂より知床岬方面を望む

　約１時間の間に、知床半島やオホーツク海、反対側の羅臼湖や国後島も見えた。山頂には様々な人々が鈴を着けてやってくるが、登山道ではないので、さほど気にならない。下山を開始して間もなく、羅臼平にヒグマがいると、上ってくる人が教えてくれた。登山道から１００ｍぐらい離れたハイマツの中に２頭のヒグマが動いていた。大きいので成獣だ。よく見るとヒグマたちは、好きなように動き回っている。登山者なんか気にもしていないように見える。

羅臼平のヒグマ

　羅臼平で上ってくる若者２名とすれ違った。こちらの方向にヒグマがいると知らせて、あそこまで登れば姿が見えると教えたら、「知床だな～～～！」と言って駆け上がって行った。そのすぐ後で、トレランの２名とすれ違ったが、クマの話をする間もなく、派手な鈴の音と共に駆け上がって行った。

　大沢を下っていると、オホーツク海に面して、知床五湖が見えた。昨日、遊歩道を歩いた所だ。３Kmのコースだった。９月は毎日のようにヒグマの目撃があり、先週はそのために閉鎖されていたという。 250円を払って、許可証をもらい、レクチャーを受けてから、各自で歩き出す方法だ。

大沢より知床五湖を望む

　レクチャーで熊鈴はどう説明しているのか？
　クマに会わないために、周囲をよく見て歩きましょう。少し先にいるクマの気配を察しましょう。複数人数で話をしたり、鈴を着けたりすると、ある程度の効果があります。もし、クマに会ってしまったら、静かに引き返してください。遊歩道は一方通行ですが、クマを見つけた場合は、逆戻りして、センターに報告してください。そのまま進んだり、クマを刺激したり、興奮させたりする行為はしないでください。なお、熊撃退スプレーなどもありますが、効果は限定的です。

三湖のシカ

　こんな内容だった。もちろん出発時に熊鈴を持参しているかの確認や鈴の貸与などはなかった。水と傘を持って、一足先に出発した。小雨の降る静かな森だった。三湖まで来たとき、遠くで何かが動いていた。近づくと雄のエゾシカだった。草を食べていた。電気柵のある高架木道まで歩くと、ヒグマに出会う機会はなくなる。ちょっと残念だった。

　この経験から、羅臼岳以降の登山では、できるだけ音を立てずに、周囲の気配に敏感になる歩き方をした。鳥がすぐ近くから飛び立ったり、シカやリスとの距離も縮まり、ナキウサギもよく岩の間から出てきてくれた。でも、ヒグマとの接近遭遇はなかった。

　だいぶ下ると、極楽平だ。木が水平に生えていたり、枝がぐにゃぐにゃに伸びていたりする場所だ。北アルプスの黒部も同様であるが、知床の木々を見ていると、それにも増して冬が厳しいと想像できる。冬の木にとっては地獄平であろう。木の形が面白いので、ゆっくり見ながら歩いていたら、「チリンチリン」「チリンチリン」と外国人２名に追い越された。外国人の鈴装着率は７割ぐらいだろうか。しばらくすると「チリンチリン」「チーンチーン」と弾むような音がしたと思ったら、あっという間にトレランの二人組が走り去った。後ろの人は、タイムを気にしているのかスマホを見ながら走っている。鈴さえしていれば、クマに遭遇することは、ないと考えているのだろうか。

極楽平

　もうすぐ登山口である。上りよりも下りの方が、登山者がバラケルので鈴の音から逃れやすい。トレランの後は誰も来ない。でも、トムラウシ山の日帰りコースを快晴の日曜日に登った時は、最初から最後まで鈴の音の中にいた。人気の山なので仕方がない。そんな中、トムラウシ公園から山頂までご一緒した女性に、なんで鈴を着けないのかと問われた。「クマに会いたいからです」と答えたら、クマに会った話をしてくれた。秋田県の森吉山、もうすぐ下山口という所で登山道の先にクマを見つけた。怖いのでクマから見えない所に隠れて、鈴を鳴らしたり、ザックをパンパン叩いたりしてから覗くと、クマの姿はなかったとのこと。やはり、クマに気付いて、そのまま進まなかったので、難を逃れたのではないか。その後に音を出してクマに知らせたからといって、クマが立ち去るか、寄ってくるかはクマ次第だったかもしれない。

　実は、小生も尾瀬の木道でクマに会った事がある。鈴は着けていない。横方向 15m ぐらい先で、隔てるものなし、お互い丸見えで、クマと目が合った。歩くのを止めたら、クマも足を止めて、こちらを見ている。クマから目をそらして 20秒くらい静かにしていたら、クマは近くの茂みに入って見えなくなった。

　どうやら、熊鈴の効果は、あるときもあれば、ないときもあるのではないか。ましてや、熊鈴を着ければ、クマが逃げていくと考えるのは安直ではないか。そして、クマが近くにいるのを察するために、鈴の音が邪魔になることはないのだろうか。

岩尾別温泉の露天風呂

　無事に下山したので、歩いて岩尾別温泉の三段の湯（無料）に行った。誰もいない静かな露天風呂だ。

　小生は音に敏感で、ほんとうは臆病な性格である。女房と一緒に登山していると、横で「ガサッ」と音がしただけで、反射的に「ワッ！」と声が出てしまうことがある。女房は「ビックリさせないでよ。貴方の声の方が、よっぽど何か出たんじゃないかと驚くわよ」とよく言われたものだ。ビクビクしながら山を歩いている男が、鈴も持たず、笛も吹かずに、静かに山を歩きたいとは、矛盾しているように思えるが、いざクマに出会ったときの覚悟はできているのである。女房が他界する直前に、私の人生に悔いなしと言った様に、ようやく小生もその心境に近づけたようだ。今年の夏、冷池山荘で満天の星を見ていたときのことだ。女房が亡くなったことがきっかけで、この２年間、自分一人でやれること、やりたいことを実行した。小生は「十分に生きたな」と心から思った。自然と「いつ死んでもいいや！」とつぶやいていた。その「いいや」の「や」と同時に流れ星が流れた。これは明日、鹿島槍ヶ岳で小生が遭難する暗示か？女房のウィンクか？それとも天が「いいね」とエールを送ったのか？いや、単なる偶然だが、いつ死んでも悔いのない状態になってきているのは確かである。

　そんな心境で山を歩くと、不思議とクマを怖いと思わなくなるのである。もし、クマに接近遭遇したとしても、騒がず、脅かさず、静観して、森の主に敬意を表して、その場をゆっくりと立ち去るつもりだ。でも、もしクマが突進してきたら、地面に伏せて、頭を手で覆い、無抵抗になるか、果物ナイフを取り出して、立ち向かうかは、小生にも分からない。

　今年はクマが町に出没するニュースが多い。人間の食べ物を求めて、危険を承知で、森を出るクマがいる。当然、緊張しているので、興奮して人に襲いかかるときがある。一部の専門家(?)が、道路や畑でも鈴を着けるようにと言い出した。そんな意見に耳を傾けないでほしいと思う。クマの住処である山と人間の住む里を同一視することなかれ。子熊を除き、クマは人間が登山道を通ると知っているのだろう。だから、山菜やキノコ採りで襲われる人がいても、登山道でクマに襲われたというニュースは少ない。クマが行きたい方向に登山道があり、それを横切ることはあるが、登山者も移動しているので、遭遇する確率は低い。小生も谷川岳の西黒尾根を下山中に、登山道を横切るクマと遭遇した。すぐ前を行く登山者が「今、クマが横切りました」と知らせてくれたので、その方向を見ると、姿は見えなかったが、熊笹が揺れて遠ざかって行った。十数年登山道を歩いているが、この１度だけである。なお、登山道で子熊に遭遇したら、近くに親がいると考えるべきである。親熊は、子が危険だと察したら登山者を襲う可能性は高い。子を追い払ったり、触ろうとしたり、餌を与えるのはもってのほかで、親子を刺激しない行動が求められる。

　それにしても、小生は、鈴の音が聞こえる人気の百名山に、本当は近寄りたくないのです！
　こうして、静かな山を求める旅は続く。

嗚呼、熊鈴の音

田中正祐紀 2023年11月1日掲載 E-68

田中正祐紀　2023年11月1日掲載　E-68