永遠の歳月
夫天地者万物逆旅
光陰百代之過客
中国、唐時代の詩人李白が残した詩の書き出しで、そもそも天地は万物を迎え入れる宿であり、時の流れは永遠の旅人です、という意味らしい。
月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり。 千年後に江戸時代の俳人、松尾芭蕉が奥の細道に引用している。 現代文では、歳月は永遠の旅人であり、毎年来ては去る年もまた旅人のようなものである。
今、自分の人生を振り返れば永遠の旅路を七十四年歩いて来たのだ、と思い感慨深い。 二十歳の頃は、死ぬのは年寄りで若者の生命は永遠だ、と思っていた。 それから五十年を超えて生きて老人になると、人間の生命には限りがある、と身に沁みている。 日本人の平均寿命は男が八十一歳、とすれば余命は十年ないが、何時死ぬかは、誰にも解らない。 ひょっとすると百歳まで生きられるかもしれない。 縄文時代の人間は、平均寿命が三十七歳程度であったらしい。 人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、と好んで謡った信長の頃はまさしく、平均寿命は五十歳だった。 江戸時代から明治、大正、昭和初期の平均寿命は六十歳ぐらい。 医療体制と栄養状態が飛躍的に改善された現在では、百歳まで生きる人も多い。 地球に住む八十億の人間が皆百歳まで生きたら、食料が足りるのかと、心配ではある。
人間の寿命は、七十年を超えて生きてみると、成る程そうなのかと感じることがある。 まず、体力の低下が著しい。 三十代に八時間歩けた山道を、七十歳を過ぎると、四時間歩くのが、やっとだ。 若い頃の生命力は半減している。 疲労に対する抵抗力も無いに等しい。 生きているだけで身体に疲れが蓄積していく。
桜散る死ねないから生きている
名月や老いて死を知る足るを知る
余命幾ばくもない年齢になったので、身辺整理をしている。 身体が不自由になる前に、必要ではない物を処分しておきたい。 身の廻りが生活必需品だけになれば、身軽になれる筈である。
想い出もそうだ。 どうしても忘れたくない想い出だけを心に残して、大切でない想い出はすべて忘却の彼方に捨ててしまいたい。 過去の思い出を多く引きずっていると、人生の最後の坂を登るときに重荷になる。 人間、死ぬ時は身軽でなければならない。 身軽になって、あの人は見事に人生の最後の坂を登り切った、と言われたい。 死を怖がることはない。 寿命が尽きて絶息するのは、すべての人間が歳月の旅をしてたどり着く永遠の眠りに他ならないからだ。
色即是空、空即是色
般若心経の文字を理解している訳ではない。 現在の人間が知り得る宇宙の距離は百三十億光年までだ、と言われている。 良くそこまで観測できた、と感心し、驚きもするが、その先の宇宙の涯は誰にも解らない。 語り得ないことについては沈黙しなければならない。 問いの消滅によって、問いは解決する、と言った哲学者がいた。 宇宙の涯は誰も知り得ない。 永遠の歳月を旅する人間が何処にたどり着くのかは、誰にも解らない。 解っているのは、今を精一杯生きなければならないということだけだ。
新年の挨拶だから、長くならないうちに終わりたい。 続きは機会があれば、また認めたい。
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