　旅先で美味しい蕎麦屋を見つけるとなんだか得した気分になるのは私だけではあるまい。信州なら蓼科の“みつ蔵”、安曇野の“相馬”あたりが最近の私のお気に入り店で、山の帰りに立ち寄っては独り悦に入っている。これがもし登山途中の山小屋で手打ち蕎麦が出てきたら・・・、そんな驚きのメニューで登山者をもてなしているのが当小屋の主、髙橋仙人である。

　2年前のある晩のことだった。仙人が私に将来の夢を語ってくれた。「再来年還暦になるけど、そのお祝いに自分で蕎麦を打って食べるのが夢でね。ちょうどそのとき小屋も10周年を迎えるからそれまで頑張るんだ」と。実は髙橋仙人、無類の蕎麦好きなのだ。

　蕎麦は繊細な穀物である。水分を吸収しやすく粘りのもとであるグルテンが少ないことから、実を挽いてすぐ打たないとうまくつながってくれない。茹でるのも沸騰したお湯で40秒ほど、温度が低いとブチブチに切れてしまう。 “挽き立て、打ち立て、茹で立て”の三立てでないと蕎麦は美味しくないのだ。標高が高く沸点の低い山小屋で手打ち蕎麦などできるのだろうか。幸いここはまだ標高1,500ｍ、しかも茹でた麺を冷水で締めるのには仙人谷の清水がふんだんに使える。これは試してみる価値がありそうだ。「髙橋さん、それできるかもしれません。やってみましょう」

　というわけで私の所属する日本そば打ち名人会^(注１)が全面的に支援することになった。まずはスペースの問題。平らで広い場所が必要だが小屋でそんな贅沢は言っていられない。そこで麺棒、のし板、コマ板に至るまですべてコンパクトサイズのものを下界で自作した。こね鉢は大きめのボウルで代用。包丁はこだわって蕎麦切り用の本物にした。蕎麦粉は信州戸隠、北海道幌加内とならぶ名産地茨城は金砂郷産（かなさごうさん）の実を下界で挽いたものだ。 2009年9月中旬、これらをすべて小屋に担ぎ上げた。これで役者はすべて揃った。

　まずは私が打ってみた。狭いテーブルの上でやりにくかったが、仙人谷は適度な湿度があるせいか意外とうまくできた。次は肝心要の茹でだ。グラグラ沸騰する大鍋の中に一人前を流し込んだ。さーっと温度が下がるが再沸騰とともに麺が鍋の中を泳ぎ始める。頃合いを見計らってザルですくい上げ冷水でぬめりをとると麺がキュッと締まってくるのがよくわかる。「大丈夫だ。切れてない！」水切りをしてざるに盛りつけ、さっそく仙人に味見をしてもらった。私も一本つまみあげてそのままチュルチュルッ。下界の手打ち蕎麦屋と比べても遜色ない出来栄えだ。いや、大自然という環境にも恵まれてこれは美味すぎる！仙人も絶賛して大喜び。こうして試作第1号は大成功に終わった。

　ここから仙人の蕎麦打ち修行が始まった。小屋閉めが間近に迫っており、せっかく覚えても翌年の小屋開けの頃には忘れてしまう。初年度は体験実習だけで終えたが、それでも10名弱の宿泊者の方に仙人の試作蕎麦を召し上がっていただくことができた。

　2年目は精力的に修行に励んだ。仙人は筋がいいので覚えも早い。なかなかのものである。温泉から上がって炉辺で談笑しているお客さんも、小屋の中から聞こえるトントントンという音が気になって覗きに来る。
「えーっ、蕎麦を打ってるー！」
「写真撮ってもいいですかー？」
夕暮れの小屋が賑やかになって空腹が頂点に達する頃に食事の時間を迎える。

　そこで主が宿泊者に歓迎の挨拶。「田舎風の太めの手打ち蕎麦ですが、どうぞ召し上がって下さい」^(注２)こう言えば許してもらえるのが山小屋のいいところ。皆さん大喜びだ。

　蕎麦は食感が大事である。包丁の断面で角が立った麺はつゆがよく絡む。しかも喉ごしのザラザラ感がよい。また蕎麦は米・小麦と違って味にクセがあるため、それに負けないダシの効いた濃い目のつゆがよく合う。ざるに盛られた蕎麦の表面から水が引き始めると蕎麦の香りが立ってくる。そこを箸でつまみ上げつゆをサッと絡めて空気と一緒に音を立てて吸い込むのがおいしい食べ方だ。甘みのある蕎麦はそのまま食べても美味い。清水につけて水蕎麦、つゆの代りに岩塩を振って塩蕎麦もいける。塩むすびが美味いのと同じ理屈である。蕎麦の風味を楽しむにはこの方がいいかもしれない。噛むほどに蕎麦の甘みが増してきて、それを岩塩が更に引き立ててくれるものだから、脳がつゆの味を拒絶してしまうのだ。夕食のおかずを肴に、黒部の地酒「銀盤」を冷でクイッといき香り高い蕎麦をすすれば、ここはもう雲上の蕎麦屋である。

　こうして今年3年目を迎えた。仙人も腕を上げて細い蕎麦を提供できるようになり、今年はたくさんのお客さんに召し上がっていただいた。噂をききつけて来た人もいるほどで、なんとか小屋の名物としてやっていけそうなところまでこぎつけた。
念願だった“還暦に手打ち蕎麦”もできた。ただ手間がかかるので宿泊者の多い日には提供できないのが残念である。仙人温泉小屋には是非すいている日を狙ってお泊りいただきたい。

　しかし、仙人はこれで満足しているわけではない。冷蔵庫のない山小屋ではつゆの作り置きができず仕方なく市販のつゆを使っているが、これではせっかくの蕎麦の美味さを十分引き出すことができない。来年はなんとか自家製つゆで提供したいと考えている。仙人の飽くなき探求は続く。

（注１）そば打ち名人会が認定する技術レベルには　教授、准教授、上席研究員があります。
（注２）仙人温泉小屋では、蕎麦粉八割・中力粉二割の二八蕎麦で打っています。

2011.11

仙人の蕎麦打ち修行