　小屋の経営を引き継いでから7年間は1シーズンに一度だけしかヘリを使えなかった。少ない売り上げの中からヘリ代を捻出するのは大変な事なのだ。
立地条件の良い山小屋だと、1日で三百人の宿泊者があることも希ではない。仙人温泉小屋の3ヶ月が立った1日なのだから、羨ましいと思う時がある。けれど嘆いていてもなにも解決しないのが世の常であります。
　自分の小屋を他の小屋と見比べることは愚かなことだよね！それはね、35年連れ添った女房と他人の嫁さんを見比べることに等しい。惚れて一緒になった女房と気に入って購入した仙人温泉小屋だもの、死ぬまで連れ添うのが、筋と言うものだろうけれどね。でも「偶には浮気をしてみたい」と思うのもだらしのない男の本音かもしれない。
　とまれ、少ない売り上げを遣り繰りして9月の初旬にもう一度ヘリの荷揚げをする事にしたのが3年前。燃料、食材、小屋の修理に使う木材、二回のヘリ代を支払うと山小屋の売上は手元には10万円の現金も残らないのが仙人温泉小屋の現実である。なので、10年間は冷蔵庫の機能を維持するための燃料代が捻出できなかったからだ。缶詰めや乾物ばかりでは淋しい食卓になってしまうので、キャベツと生卵だけは常に確保しなければならない。独りで営業の全てを仕切っているから食材が不足しても買い出しには行けない。
秘境の温泉宿なので街に行って帰るのには２日がかりなのだ。留守するその間は休業しなければならない。一度休業中の張り紙をすると、あっという間に噂が広まってしまう。そうなると登山者の計画から宿泊地として考慮してもらえなくなる。宿泊者が減れば当然売り上げも減る。経営はますます苦しくなるのは目に見えている。だから休業はできない。膝が痛かろうが、足が吊ろうが、頭がズキズキしようが寝込むことはできない。それが小屋番暮らしの辛いことのひとつなのだ。

　辛いと言えば、独りで食事の用意をして、独りで食って、独りで後片付けを3ヵ月毎日するのも辛い。食材が限られているから味付けも替わり映えがしない。30日毎食同じような物を食っていれば食欲も落ちて当然だろう。「たまには刺身を食ってみたい、食堂のラーメンを食ってみたい、暖かくて分厚いトンカツを食ってみたい」と考えるようになってしまうのだ。
　栄養が偏るので体重は確実に減る。一日に100グラム、30日で3キロ、60日で6キロ、90日で9キロは減る。体重が9キロ減ると体力が落ちて、何をするにも息切れがして仕方がない。特に屋根の上にフトンを干すのが大変な重労働になってしまう。 7月初旬には屋根の上まで放り投げていたのが9月下旬になると力がでない。ハシゴを使ってフトンを担ぎ上げるより手立てがない。
40組のフトンを干すのには3日間かかる。天気は周期的に変わるので晴天の日はとにかくフトンを干す。白馬岳と唐松岳の山頂の上に入道雲が現れると油断ができない。
　入道雲の先端が崩れて仙人谷を覆うようになると雷雨が近い。急いで取り入れないとせっかく干したフトンを濡らしてしまう。独りだと疲れてヘトヘトになる。少し休憩をして、一息ついてから夕食の用意に取りかかる。宿泊者の食事時間は夕食が6時、朝食は早い人で4時、登山者は皆朝が早いので7時には片づけが終わる。

　小屋番の一番楽しいのは誰もいなくなった朝に温泉にゆっくり入って酒を飲むひとときだね。夜は何かと気を使うので、朝に誰にも気兼ねなく飲む酒は美味い。とにかく無条件で美味い。潰れるまで飲みたくなるほど美味い。朝から寝るまで酒を飲んで、酒だけに頼って生活していると、どうしても栄養障害になる。好きで選択した山小屋暮らしだから愚痴は言えない。
グチャグチャと愚痴を並べて苦い酒を飲んで悪酔いをするようになったら潔く山小屋暮らしを辞めようと思う。　
淋しいけれど、そんな心情のときに口ずさむのが小屋番のブルースだね。人間には永遠の命は与えられていない。

後記

　時間はある。小屋に独りで暮らしていれば24時間がすべて自分の時間である。
朝の仕事を片付けてビールをグビグビ呑んでいると、「見つけたよ！永遠を」と言ったフランスの詩人ランボーの心境が解る。
生命には必ず限りがある。永遠に続く生命はこの世に存在しないのだが、瞬間の永遠が有ることをこの年齢になって知ったよ。
黄色や紅い夏の花が散って、うすい紫色のトリカブトが秋風に揺れているのを見た時に、永遠の瞬間を感じたよ。　
18歳で永遠を見つけたランボーと、61歳で永遠を知った愚鈍な自分を見比べてみても仕方がない。が、山小屋暮らしをしなかったら、それすらも知らなかったかもしれない。
仙人温泉小屋には感謝している。自分は倒れてもいいが仙人温泉小屋はいつまでも存続して欲しい。
今願うのはその一点だけである。

2012.08

小屋番のブルース